アベノマスクが届いた時、思い出したODAのお話し 2
ビエンチャンの赤いシミ
ラオスは地下に大いなる資源を持ちながら、長引く内戦、ベトナム戦争時の地雷の撤去も進まず、政権や貨幣の不安定さもあって、裕福な国とは言い難かったが、ここ10数年の間にオーストラリア資本の金鉱の採掘が本格化し、貧しい国は一気に黒字国家となった。私がタイからメコン川をボートで越えて、ゲリラの襲撃に1日違いで免れ、首都ビエンチャンに立ち、そこから陸路でベトナムに抜けていったのは、そんなバルブに沸くほんの数年前。舗装道路はほぼなく、まだまだ貧しい国ではあったが、人々はあたたかく素朴で、家族は仲良く、子供たちは泥んこで遊びまわる場所だった。そんな自然豊かで、数奇な歴史を持つ国を愛する世界中からの旅行者が思い思いの旅を楽しんでいて、欧州からのパッケージ客、若いバックパッカーたちでにぎわっていた。ここでも私はちょっとやるせないODAに触れることになったのです。
バスの乗客は、かごに入ったブタちゃんやニワトリくんたち
タイとラオスの国境地帯、その奥地には黄金の三角地帯と呼ばれる違法の芥子畑がある・・・らしい。今は政府の力で撲滅されつつあると言われているが・・んな物騒なところの近くの波止場のイミグレから、メコンを難民船みたいなボートで下って、世界遺産ルアンパバーンを経て、またもモーターボートとジープ、ボッコンボッコンの道をニワトリやブタちゃん達も乗り合わせたバスに一晩中揺られて、途中エンジンが止まり、凍え死にそうに寒い日の出前、とうとうラオスの首都ビエンチャンまでやってきた。
ここでやたら目につくのは、たらいやバケツに入れられた黒い魚。ホースからぷくぷくエアーが送られて元気に生きたまま売られている。名前はとても単純、ブラックスナッパー。分類学なんて気にしちゃいけません。現地ではちゃんと名前があると思います。ブラックバスみたいな淡水魚。
アジアではどこに行っても英語表記だと魚は大抵〇〇スナッパーになっちゃうのよ。レッドスナッパーとか、ブラックスナッパーとかね。
で、このブラックスナッパーくんが今回のラオスODAの話ネタです。
ベトナム料理はお好き? ラオスはもっと美味しいよ!
ラオスの食べ物はなんでも美味しい。ベトナム料理にほぼ類似しているが、ラオスの方が原点のようにも思う。焼きのりや五平餅などもあって驚かされる。
ビエンチャンの町角、市場、いたるところにエアーを入れた黒いさかなクンはこの町のトレンドのようだ。バケツやたらいは殆どの食堂の前に置かれ、日なたの道の上、ブリキの狭い空間にあえぐように泳いでいる。ちょっとした生け簀だが、さすがに刺身はない。焼くのがスタンダード。頼めば蒸しても、揚げてもくれる。しかし、この熱さでは料理する前に煮えてしまいそうだけどねぇ。。店の人が慌てて日陰に移動する。
金魚鉢もそうだけど、ぷくぷくのエアーは特に私たちには珍しいことではない。食べてみたが、淡白な白身の魚で臭みもなく、日本の定食だね。おいしい!
若きODA職員の嘆き
すっかり行きつけになった食堂で、突然日本語で話しかけられた。「日本人ですか?」見ると、この東南アジアの国で日焼けもしていない、真っ白のワイシャツがまぶしい日本人の若者だった。
久しぶりに日本語で話せることがとても嬉しそうに、いろいろと旅情報を伝授してくれた。ODAの職員で、ビエンチャンで一番の高級ホテルを常宿にして、あと3年の任期があるという。
打ち解けるうちに、彼は現実を語り始めた。あと3年の任期を日々どうやってやり過ごそうと考えていると言う。
けしからんか?金儲けするラオス人は。
この国の役人は全く働かないんだと苛立つ。遅刻は当たり前、来てもなんも仕事しない。お金の話しには敏感で汚職とワイロで腐りきっていると嘆く。純粋で育ちが良くて、仕事に大きな誇りを持って、夢と期待を全身に詰めて彼の地にやって来たに違いない。
「いけすがあるでしょ?」と彼は言う。「あれね、日本のODAが教えたの。それまでは、魚がみんな死んじゃって。冷蔵技術も悪いから、新鮮なものはなかったし。大金を投じて、技術を教えて、機材も調達して、タダ、タダでですよ。」
「ここの人はね、養殖出来るようになったとたんに新鮮な魚を売って儲け始めたの。けしからんでしょ。一事が万事こんな調子ですよ。」彼の言葉には諦めの気持ちと共に、澱のような苛立ちと怒りが見て取れた。
援助は純粋な気持ちでは出来ない。
ポストに届いたアベノマスクを手に取っても、何の感動もなく、軽い憤りさえ感じさせた。マスクに罪はないが、ストーリーが良くない。今はマスクのことなどすっかり忘れてしまったかのように、記者会見は続く。原稿読みは多少上手くなったが、相変わらず大風呂敷を広げているように聞こえる。給付金などは今のところ絵に描いた餅で、この時期に税金の請求書だけが遅れずに届く。
世界最大級の予算を組んで国民を守るというセリフは、きっと世界中を駆け巡るのだろう。いつかどこかで、日本はいいねって言われるかもしれない。確かに良い面もあるだろう、が、額面のお金は湿地帯のように予算欲しさの人々にずぶずぶと吸い込まれて、私たちの手の平にはどのくらい載るのかしらね。
月の都で何を夢見た?
彼は何に怒り、諦めているのか。日本の援助を食い物にしている役人か、毎日食事の度に魚を売って儲けているこの町の人を見る時なのか。そもそもが分からない。援助して、その国の人々が豊かになればそれで良いのではないのか?
それで金儲けをしたらけしからんでしょ?という言葉、賛同の返事を期待する語尾上がりのアクセントにこちらが苛立ってきて、怒りのスイッチをいれないように黙ってこらえた。
彼の理想はなんだったのだろう。ODAがタダで教えた技術を、いったいどうように使ってもらえたら満足だったのだろう。基本概念も違う、世界の中でも貧しい国と言われている社会主義の国で、腐ってしまった魚が生き生きと売れてお金になるなら、みな喜んで商売をするだろう。それが何故けしからんなのか。
どうも、この技術が日本のものであることを、国民が知らないで恩恵にあずかっていることも、彼の夢をしぼませることの要因のようだ。「日本のお陰でこんな新鮮な魚が食べられることになった、ありがとう!」って感謝があれば、彼は傷つかないのだろうか?彼の「援助」とは何だろう。
大人たちが感心する「人の役に立つ人になりたい、困った人を助けたい」と将来の夢を語る子供たちの、その将来がそこにはあった。人の役にたちたかった若者は、この地で何を体験して、何を心に刻んだのだろう。
実はこの言葉には、無意識の差別と優越感を含んでいると私はずっと感じていて、あなたの云う「可哀そうな人や困っている人」とは、誰のこと?と突っ込みたくなってしまう。多分それは無償の愛ほど無垢でもなさそうに思える。もっと言えば、大人たちがいい子たちのために言わせているような。。。そういう考えを基本に持っている私の前にその青年は現れちゃったわけだ。
目の前の彼は当然ながら無垢でも純粋でもなく、さそれさえにも気づいていない。だから、この現実に傷ついてしまう。十分に役に立っているにもかかわらず。
バックグラウンドなしに援助を甘受したした人たちは、それを当たり前のこととして「もっと」を要求してくる。しかしそれは「悪」だろうか?
彼は理想通りの英雄にはなれなかった。任期の終わりを指折り数えて、働かない同僚たちに辟易して、ビエンチャン一の高級ホテルに帰ってゆく。彼もまた、赤い土埃にまみれて、この国と共に成長過程にいる。
うつむいた若者は、埃っぽい町の食堂で、1杯130円の赤いスープのチャンポン麺をすすっている。場違いな真っ白なワイシャツに、みるみると赤い水玉模様が飛んだ。
貧しさはいつも謎に包まれる
この国は世界でも貧しい国と言われ、ここに住む人はそれを隠しもしない。外国人旅行者とみると、平気で2倍3倍、ときには10倍の値段を吹っかけてくる。道端で天秤棒を担いで商売をする人に声を掛けると、必ずどこからか人が現れて、もっと高い値段で売れと売り子に言い含める。
不思議なもので、現地の言葉など全く分からなくても、こういうことはちゃんと理解できる。困った顔の素朴な売り子は、こうして観光客値段を学んでいくのかしらね。でも、必ずと言っていいほど現れる値段つり上げオヤジは、売り子の知り合いでもなさそうで、勿論いつも決まった人でもなく、たまたまの通りがかりの人のようだが、これは互助の精神なのか?
悪気とかそういうものではなく、良心の観念の問題のように思う。困らない人から多くのお金を取ることにそう罪悪感はないようだし、托鉢が当たり前のこの国では施しの意識も違うように思う。アジアの他の国と同様に、値切ればそれに応じてくれるが、外国人が地元の人と同じ値段で買えるものは多分ないと思う。
そんな国にあって、ガイジン価格と変わらないものがある。外国産たばことアルコール類である。ガイドブックにある国民の平均月収から考えると、お酒なんてとんでもないことだ。が、この気候にビールはたまらない魅力でもある。
その所為ではないと思うが、昼間っからビールを飲んでいる人がとても多い。貧しい国だから仕事がない、だから昼間から酒を飲む、という図式は特に珍しくないが、こんな値段の酒代を払える人が仕事がないとは?みんな泥棒か!?
GDPの数字は当てにならないのか?目の前の景色はとっても不思議だ。他にも珍しくないピカピカの日本車。若者が駆るこれまた日本製のナナハン。文字でなぞるその国の経済は、実際の目で見るものとはまったくイコールにならない。
いつか父親が盗まれたホンダカブはここで走っている気さえして来た。どのように貧しい国なのだろう?
希望は絶望を喰いながら成長して大きくなっていくんだ
力なく微笑んだ若者は、あと3年この地で暮らす。が、これから何年後になるかわからないけれど、同じように希望の風船を割られた若者にどこかで出会った時、彼は次世代の若者に、何を話して聞かせるのか。私は、見て、感じて、味わって、触れてという五感の刺激が人を大きく成長させると信じて疑わない。
あれからもう何年たったのか、彼はすっかりおじさんの域に達しているはずだ。今でも同じ仕事をしているのなら、JICAの偉~い人になっているかもしれない。もし、辞めていても、この時のやるせない経験は、きっと誰でもない、彼自信の役に立っていると思う。「あの時の自分」たちを助けてあげられる人になっているに違いない。彼の旅はあれからずっと続いていると信じると、またどこかで会いたい気持ちになる。だって、絶望は次の希望のエサになるから。あの赤いシミを涙で洗ったとしても、本当の夢を持っていたとしたら、彼はちゃんと乗り越えて何かを掴んでいるはずだ。
少なくとも、上手に理想を語るノウハウをどこかの塾で身につけて、ネット検索に長けている人々より、ずっと役立つ、人を助けられる人間になっているんだろうと思う。
そう、また旅に出よう。。自分を写す鏡は、その時々に出会う人だったりするから。1日も早くCOVID19が収束しますように。
次回は北ベトナムのODAのお話しです
お楽しみに!